動画配信者こそ落語が必要なのかもしれない

笑いやエンターテイメントの実力で考えれば古典芸能より現代芸能の方が上、これは事実。古典には古典の面白さがあるが、これは純粋な面白さではなく、現代には無い珍しさから生じる面白さだと思う、変から生じる面白さとも言える。

よくよく考えると落語は同じ伝統芸能の能や歌舞伎、狂言の中で比べても、衣装や小道具、舞台が豊富ではなく視覚的表現能力に乏しく、座布団という狭い舞台の上で自分の身振りと話術だけで楽しませなければならない非常に制約の多い芸能なのだ。

このように落語は道具の面で古典芸能の中でも道具を使って視覚的に楽しませることが原理上困難な芸能なわけだから(つまり演者の話術と身振り手振りの表現力がモロに出る)、これを現代に最適化された現代芸能の笑いや面白さを同じ土俵で競わせようということにそもそもの無理がある。

古くてベタなストーリー、どう考えても高度とは言えない次元の低い笑いどころで人を笑わせることに無理がある。だからこそ現代の文化に合わせた新作落語が生まれるわけだが、一方本来であれば古臭くて時代錯誤な古典が大事に守られこれからも継承されていく事実もある。

現代における落語の価値や意義というのは本来面白くないものを自分の体と僅かな小道具、それを座布団という狭い舞台という制限や制約の塊の中から笑いを生み出すことが、落語の魅力なり凄さだとオレは考える。

落語はつまらない、面白くしている事が面白いのだ。

さてタイトルに戻るがカメラや編集ソフト等道具が高機能で高度になると、道具を使いこなせば確実に人気が稼げると思いがちである。つまり道具コレクター、ノウハウコレクターになってしまう。もちろん映像や音声等は見て分かる、内容をしっかり聞き取れる最低ラインをクリアする必要はあるのだが、プロレベルの高得点を狙う必要はない。

また機材や編集の技術が進んで映像の平均点が上がってしまうと、そこに時間とお金をかけて頑張ったところで、それに見合う成果があるわけでもない。なぜなら他の人達も同等のクオリティの映像を作れるのだから。

機材や技術が横並びになる、ましてや数字の取れるテーマやワードが瞬時にネットで検索出来る。つまり動画サイトに並ぶコンテンツはどれも横並びになるのだから違いは配信者の表現力や個性になる。 だからこそ面白くないものにも面白さを宿す落語的な笑いの創造力が重要になってくる。

横並びのテーマ、横並びの機材。どうすれば最初から最後までしっかり聴いてもらえるかしっかり見てもらえるか。ヘタな尺伸ばしをすれば分かる人には直ぐにバレる。バレれば当然のこと力量を疑われる、限界と思わえる、視聴者は離れていく。

投稿し続けることは大事で、とりあえず投稿すれば数字が0ということは無い、数字は必ず伸びる。しかし中長期で考えると内容や面白みに乏しい動画を無理に何本も投稿したり、広告挿入の為の尺伸ばしをして評判を落としたり視聴者離れを起こすよりは、少し休んでクオリティを維持し続けるのも一つの有効な戦略だと思うのである。 ストレスや後ろめたさを感じた状態で無理をして面白くもない質の低い動画を出したところでも良いことは無い気もする。

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